時の嶽城主・神戸太郎最重が室町時代初期、応永10年(1403)頃、岩船・耕雲寺の傑堂能勝禅師の道風を慕い、師を勧請して中興の祖となし、爾来、禅刹として再興。ご開山・傑堂能勝禅師は、南北朝時代、後醍醐天皇を支えた楠木正成の直孫と伝えられる。早くから祖父・正成の意志を継いで、南朝の再興を願い、一族と共に良く奮戦するが、25歳の時、相手方の弓矢により足を痛められ治療の折、仏典を読み戦国乱世の虚しさを感じ、諸方に多くの禅匠を参じた後、越前・龍沢寺の梅山聞本禅師の会下に投じ、禅の奥義を究めたといわれている。

 ご開山の徳風は、その弟子にも及び二世・顕窓慶字、三世・虚廓長清など、いずれも学徳高く、越後・奥羽・北関東一円にわたり教線を拡張、法燈の赫灼たること久しく続く。近隣に多くの末山があるのも、当時の活躍がしのばれる。

 数次の火災、また天文年間(1532~1554)に於ける国内騒乱は、寺領の大半を武人によって侵掠され、伽藍も荒廃に委せ法運の衰微、はなはなだしく悲境に陥る。その後、村上藩主・堀丹後守直嵜公が中興開基として寺門を再興、また村松歴代藩主の帰崇、さらに曹洞宗中興の祖といわれる小浜・空印寺面山瑞芳禅師の上足・衡田租量禅師の晋住により法筵、再び繁栄。多くの修行僧が各地より集まり、面目を一新す。その後、奥義を得た修行僧は各地に於いてめざましい活躍をする。

 明治期に至っても名僧・善知識が輩出したが、新政府による神仏分離令、廃仏毀釈は、日本仏教界にとって未曽有の混乱をもたらした。慈光寺にとっても古格としての特典はすべて廃絶、寺領も大半、上地を命ぜられ存亡の危機に遭遇。その中で慈光寺42世滝谷琢宗禅師は、明治期の仏教界全体にとって難局の時代に在家化導に大きな役割を果たし、中でも『修証義』編纂に心血を注いだことは、特筆に値する近代の名僧である。禅師は川西町(現・新潟県十日町市)出身で真福寺にて出家、慈光寺住持のあと大雄山最乗寺に昇住し、50歳の若さで大本山永平寺63世として猊座につく。

 毎年の雪害や数百年を経た老朽化の伽藍は厳しいものがあり、経済基盤のない当山にとって伽藍の維持・保存は並大抵のことではない。昔日の盛観は今では見ることが出来ないが、しかし、昭和62年、当時村松町の心ある人々によって坐禅堂・庫院の屋根替えを始め種々の整備、さらに平成23年の本堂の屋根替え、天龍閣(東司・浴司)の改築により、往年の威風に息吹を注ぐのに一役を担った。

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◎4月~10月
午前9時~午後4時30分
◎11月~3月
午前9時~午後4時